好きだけど、それがベストではない場合

仕事柄いろんな相談にのるので、自分自身は幸せでも、色々と考えさせられることがあります。

たとえば、2つの事例から。

●一番大好きな人(Aさん)はいるけど、なかなかわかりやすい相思相愛の感じにはならない恋をしている場合。
そのいっぽうで、一番好きな人ではないけど、まあまあ好きな人(Bさんなど)と関係をもっている。Aさんとは成就するにも時間がかかるし、先がみえない。まあまあ愛してくれるBさんと関係をもつことで、寂しさはうめられる。でも一番大好きなのはAさん。

この場合Aさんのことだけにエネルギーを集中させ、Bさんとは つきあわない・・・という考え方もできるだろう。
まあまあ好きなBさんは、まあまあ好きなだけで、本命ではないのだから。会っても心の底から満たされることはない。でも、少しの愛は満たされる。

 

このケースを自分に置き換えると、なかなかさしさわりがあるので(苦笑)食べ物に置き換えて考えてみた。

 

●私は「渋皮付き和栗」が大好きだ。栗だったらなんでもいいわけではない。                       fullsizerender-jpg-%e6%a0%97
一番は「渋皮付き和栗」(Aさん)が、大好きだけど近くには売ってないし、季節も限定されている。すると、一番大好きな渋皮付き和栗を食べることが、なかなか難しい。
けれど、「栗甘露煮」や「甘栗むいちゃいました」(Bさん)はコンビニやスーパーでいつも手に入る。

でもそれは自分が一番大好きな「渋皮付き和栗」(Aさん)ではないわけだ。

やっぱり一番大好きなのは「渋皮付き和栗」(Aさん)。それは他の栗を食べたらわかる。
いわゆる妥協でしかない。けれど、栗自体が好きだから。嬉しいは、嬉しいわけだ。

一番大好きなAさんあるいは「渋皮付き和栗」だけにエネルギーを集中させ、Bさん「栗甘露煮」や「甘栗むいちゃいました」は、結局 妥協案でしかない。

それでも、多少の愛は満たされる。

Aさん、あるいは「渋皮付き和栗」で愛を満たされるのが保証できている場合は、もしかしたら待てるのかもしれない。

でも、そんな未来のことはわからないから、人は「そこそこ」「ほどほど」の愛を補おうとしているのか。。。

といったことを考えた。
人の恋愛と「渋皮付き和栗」とを同じ扱いで事例にすることは、なーんか微妙なのだけど。「愛」と「食」は、すごく密接なつながりがある。(摂食障害は愛情飢餓が根本的な原因の一つだと私は感じています)

 
書きながらわかったことは、BさんやCさん、あるいは「栗甘露煮」や「甘栗むいちゃいました」と相思相愛でも、決して心の底からの愛は満たされないということ。

自分自身がわかるわけよね。本当に好きなものはこれじゃあないってことが。

ひとときの甘い時間は過ごせるだろう。だって、おいしいことは確かなわけだから。

ただ本当に欲しいものではない。
だからといって、Aさんだけを待ちつづけようなんてことがいいのかどうかは、わからない。

もしそうしたならば「他を我慢して、Aさんだけを待ち続けたのに」みたいな妙に恩着せがましさが「圧」になるかもしれない。ても勝手にこちらが待ってるだけなんだから。
また いつも「まあまあ」とか「ほどほどに」好きな感じで、おなかをいっぱいにしていると、本当に好きなものが手に入ったときに、そのおいしさを感じにくくなるのは、もったいないことだ。

だけど、日々 寂しい想いで Aさんだけを待ち続けるのも寂しすぎる。

 

映画「君の名は」じゃあないけど、一度そういう人に出会ってしまったら、もうそれは心からは離れられない気がする。

最初から「ない」ものとして、出会わずに生きていくのは簡単だ。出会ってないのだから。

でも出会ってしまったあとでは、全く人生が異なる。
たとえ なんとかまわりをごまかせても、自分自身の心はごまかせないだろう。

出会ってしまったのだから。
(私が「甘栗むいちゃいました」だけしか、知らなければ 常にご満悦だったはずだ。
しかし、私は「渋皮付き和栗」の味を知っている・・・。)
私は、妥協することなく かといって、何かを待つこともなく、

「今」一番したいこと、欲しいもの、食べたいものが何なのか

それがたとえ手に入らなかったとしても、ごまかすことのないように。

「自分のベスト」がわかる感受性を今まで以上に拡大していきたいと思っています☆

そして大切な人と愛しい時間を過ごしたいですね。